禅林街ってなんだろう? 続き② 弱肉強食の世界の桃源郷






  軍需物資をどれだけ確保できるか否かが、戦いにおける勝敗の分かれ目だという。
  戦国時代の重要な軍需物質は木材と竹だ。武器や防護柵、旗指物、篝火、戦場での炊事用の薪等、合戦を行う上で森林資源は必要不可欠だった。
  森林の管理は、戦国大名にとって、極めて重要な政策のひとつであり、意外なことに、それを「寺社に任せていた」という。
  松や杉や檜など、特に大切な樹木の育成は寺社に行わせ、有事の際に供給させていた。それを可能にしたのは寺社が戦国大名ら権力者によって保護されていたこと、それから樹木育成のための様々な知識を持っていたことが大きいのだそうだ。

  古い寺社を巡ると、神木に限らず、必ずと言っていいほど見事な樹木が植えられているが、あれはもしかしたらそういうことも兼ねていたのか、と納得させられた。

  禅林街の立派な杉並木も、あの意図して形成された禅宗のひとつ曹洞宗の33カ寺院の結集と同じように、軍事的な意味合いがあったのだろうかと・・


  仏の顔も、自然の豊かな景観も、戦さのために神妙に用意され装われたものだとしたら、昔に比べて今の日本はどうなのだろうか。

  宗教(仏の顔)は、この国の防衛にとって何か有益な意義があるだろうか。
  森林資源どころか、管理もままならず、あの杉花粉をまき散らす災害のような国中の杉林(自然の豊かさ)はどうだろうか。

  その無益さや間抜けさを想うとき、それがそのまま現代における軍需物質の確保やら、戦いにおける勝敗の分かれ目やらに投影されているように思われる。


  今の自分と大して変わらない。



  5月4日に弘前に旅行に出かけた。
  弘前さくらまつりと禅林街を散策して、帰ってきた。それだけのことだが、この旅は、随分不思議なものとなった。

  出発前、私は長年の宿題のような出来事をやり遂げて、ここ数年で感じたことのない満足感を覚えていた。余りに幸せだったもので、二十歳から吸い続けていた煙草をやめられたほどだった。それは私の人生の苦しみの象徴で、苦しい時、辛い時、私をなぐさめてくれたものだった。その長年の友を「もうなくても生きていける」と心底感じられたのだ。
  そんな行きの行程での穏やかな幸福感に対して、旅から戻ると一転して、書けなくなった。書くことは私の行のようなものなので、まさに苦しみ、苦行の始まりと言った感じであった。

  まいったなぁ。そもそも、弘前に着くと雨だった。満たされて、夢見心地の気持ちの中で、雨と、散り際の桜が妙にそぐわなかった。
  行きの高速バスの車中から雨であることは気が付いていたが、まるで遠くの出来事のように感じていた。

  これは結構大変な事態だと気が付いたのは、弘前駅から弘南バスのシャトルバスに乗って弘前さくらまつりの会場に降り立った時だ。私は駅構内で買った郷土料理の駅弁を車中に忘れてしまった。外濠の桜は葉桜だった。
  それで、自分が場違いに「惚けて」いることに、やっと気が付いたのだった。
  しかも気付いたのは、大降りの雨を凌ぐために例の「鎧」のようなゴアテックスを着た直後だったから尚更だった。なんてちぐはぐなんだ。


  幸福感は吹き飛んだ。
  残されたのは、雨と、散り際の桜だ。

  わざわざ青森まで見に来たと言うのに、桜は見事に散っているのであった。





























  弘前の満開の桜はもう何度か見た。
  散り際のそれは見ていなかった。濠の花筏もだ。これはこれで良かった。そう自分をなぐさめながら、この必然の意味を考えていた。

  今日が雨だったのは、新しい旅路はそう楽なものではないと言う暗示だろうか。警告の意味だろうか。桜が散っていたのは、満開の桜が京都旅行の物語ならば、その続きなのだから当然だという思いもする。いつまでも桜は満開ではないのだった。いくら北上して追いかけようと、私の人生にそう何度も桜は咲かないし、咲き続けることもない。
  あの物語の直ぐ後なのだから、この今私が目にする弘前の桜の風景は、今の私そのもののように映った。

  ああ、見事に散ったものだ・・
  それでも頑張ってる。散り際の桜というのは、これはこれでいいものだなぁ・・


  信仰の山、岩木山は姿を見せない。
  雨はますます酷くなり、そうかと思うと、止んで、鎧姿の私を人々から浮き上がらせる。
  駅弁を乗せたバスは弘前駅へと舞い戻った。

  間抜けな、それなりの私はスタート地点へ戻る。
  駅弁を受け取って食べ終えて、二度目の弘前公園行きのシャトルバスを降りると、外国人が藩祖津軽為信公の像を指さして、叫んでいた。

 「オオ、サムライ!」














  禅林街で哀しくなった話はしただろうか。
  私はついにここで、ぼろぼろに破れかけたパンフレットを握りしめ、自分がそう幸福ではないことに気が付いた。
今日が雨だったことに傷付けられた思いがした。
  それで、休憩を取ることにした。

  禅林街の、赤門から下寺町通りの突き当りに宗徳寺がある。藩祖為信が実父の武田守信の菩提を弔うために建立した耕春山宗徳寺、藩政時代は身分の高い士族が檀家になったという。ここは、JR東日本のCM、あの「大人になったらしたいこと」の吉永小百合さんのシリーズの弘前禅林街「座禅篇」のロケ地の寺にもなった。
  その宗徳寺で、鶯の声を聴きながら雨を見つめている時に、不意にこの雨の景色が凶兆の象徴としてのものではなくて、穏やかな私の幸福感の延長線上にある情景だと思えたのだった。

  帰宅してから、記憶は確信に変わっていった。雨は悪いものではなかった。あれは恵みの雨だったのではないか。

  決して、罰などではなく。長い旅路の果ての、新しい旅路の始まりの、ほんの一時の恵みの雨。大地を濡らし、洗い流すように。または、慈しむように、降って・・ そうだったのではないか。


  まぁ、そんな考えもあると言うことだ。その方が、宗徳寺の情景と、その情景を見ていた時の私の心情に、より近い。


  それで、私は破れたパンフレットをまた見ながら、「藩政時代の面影を色濃く残す禅林街」と、「城下町が形成された当初から作られた商家街」の、散策ルートを終いまで歩いた。ゴアテックスを着ると雨は止み、脱ぐとまた激しく降り始め、どうも雨に・・というより天気(を司るもの)に、からかわれているような思いもしたが、不思議とその派手な雨具が、雨が止んでも脱ぎ難く感じられたことだけを覚えている。脱ぐと途端にひやりとして、熱を奪われる。浮き上がって笑われても、からかわれているのだって、いいような思いがしたのだった。

  結局、上下の上着だけを着たままで、禅林街を歩いた。













  なぜ、禅林街に導かれたのだろうかとずっと考えていた。
  お陰で私は、帰宅してから、津軽藩(弘前藩)の物語を随分調べた。

  一番興味深かった逸話が、津軽藩と盛岡藩(津軽地方と南部地方)の諍いだ。
  それから、津軽地方はかつて、縄文時代に、(土地の豊かさで)最上級の場所であることを表現する古語「まほろば(真秀ろ場)」と称されるほどに豊かだったと言う事実である。

  「津軽で生まれる子らに」というサイトで、このまほろばや津軽藩の偉業をわかりやすく書いてくれている。(下にリンク有)


   驚いたのは、その中で縄文時代のまほろば(的な津軽地方)のことを、失われた桃源郷のようなものだと説いていることだった。
  良く考えれば、驚くこともなく、まほろばという言葉自体が桃源郷と同じようなものである。
が、私にとって「桃源郷」という言葉は特別だった。なぜ、津軽のことを調べていて出て来るのか理解できない程であった。








 縄文的ユートピアとは、文明としては素朴であっても、災害も戦いもなく、天から与えられた多くの恵みを人が享受[きょうじゅ]できる桃源郷[とうげんきょう]というイメージが可能であろう。
 対して、弥生(稲作文化)的ユートピアというものがあるとすれば、それはおそらく天候や地形・地質をコントロールできる例えば超巨大ドームの中、あるいはバイオテクノロジーの革命的進歩、いずれにせよ科学技術の進展の果てにある世界ではなかろうか。

 縄文的ユートピアが大自然の豊かさを背景にしているのに対して、弥生的世界は、自然の営みや社会を管理する方向性を強く持っている。

 史[ふみ]として残された現代までの日本の歴史は、この弥生的ユートピアとでもいうものをはるか遠くに追い求める闘いの記録であったといえなくもない。

 かつては「北のまほろば」であったという津軽は、いかなる天変地異の故か、その後、弥生的ユートピアからは程遠い、文字どおり辺境[へんきょう]の地としての歴史を刻んできた。

~「津軽で生まれる子らに」より~







  津軽為信は南部を裏切って、津軽藩を作った。そのことを、そもそも「津軽地方の住人から見れば、南部氏はあくまでも侵略者源頼朝の一味」であり、津軽一族の謀反は、「南部氏の支配から津軽地方が再び独立した事を意味していた」という大義が成り立つという。

  それが事実だとしたとしても、津軽(為信)氏は津軽地方の独立のために、わざわざ南部と血縁関係を結んで信用させてから、故意に、いや、計画的に裏切ったということになる。

  しかも、そうまでして奪いたい地はもはやユートピアではない。
  現代の東シナ海の島のように千億バレルの資源があるわけでもない。
  実際、津軽一族は津軽地方を本領安堵で手にしてから、地獄の苦しみを味わうのである。何の価値もない土地を、人に道に背いてまで奪い取った。
  無人情に、弱肉強食の争いの末に手にし、そして一から弥生的ユートピアを築き上げていくのであった。






 南部氏すら見捨てたこの北限の原野を、石高[こくだか]で競うひとつの藩になそうとした若き為信の野心なくば、後の色鮮[いろあざ]やかな津軽文化も生まれず、この地は今も失われたまほろばと語り継がれるだけの陸奥[みちのく]の僻村[へきそん]だったかも知れない。

(中略) 蝦夷開発は国策であり、技術的にも資金的にも強力な援助があった。その近代的開発ですら、周知のごとく凄絶[せいぜつ]な戦いであり、開拓者は辛酸[しんさん]を極めた。

 しかし、それまでの江戸期、津軽はその境界線を独力で押し上げつつ、約300年間にわたって弥生型社会の最北前線であり続けたのである。

 5万石程度の大名が背負うべき使命ではない。


~「津軽で生まれる子らに」より~





















  禅林街を形成したのは二代目藩主の信枚だという。同じ頃、信枚は条件がいい土地への国替(栄転を意味する)を断り、広大な津軽の地の新田開発政策を積極的に推し進めた。

  新田開発がどれほど凄絶なものだったのか、私は良く知らなかった。

  津軽地方の戦いを知って改めて驚かされた。







 水田開発とは、水路の開発に他ならないのである。
 水が涸[か]れれば田も涸れる。川の取水口では、より多くの水を求めて村同士の激しい戦いとなる。

 そして、新田開発が進めば進むほど、水をめぐる秩序は乱れ、用水量も不足する事態に陥[おちい]っていく。
 つまり、新田開発の限界は、すなわち水の開発の限界でもあった。


水争いの新聞記事(弘前新聞 昭和3・4年)


 (中略) 津軽平野の開発は、17世紀末、すでに限界に達したらしい。
 その後、小規模な開発はあったものの、ほとんどが洪水等による荒廃田[こうはいでん]の復旧、用水路・排水路の修復や改良に費やされた。

 乳切り田 新田開発は、さらに岩木川の最下流、現在の車力[しゃりき]村、中里[なかさと]町、稲垣村といった十三湖近くの低湿地へも進められていった。 この地域は勾配がほぼ20,000分の1。
十三湖の水位によって川が逆流するので馬鹿川と名付けられた川もあったらしい。

 当然のことながら、極端な排水不良田である。水が腰まで浸かれば「腰切り田」、胸まで浸[つ]かれば「乳切り田」と呼ばれた。
昭和の世まで、写真のような凄まじい光景が農作業の日常であったという。


乳切り田


 「中掻[なかが]きの頃は日照りで水不足になることが多かったので、朝2時、3時ごろ水車に上がり、足で踏んで水掻[か]きしました。」田植えの後は血の小便が出たと、まだ現役の老農夫はその過酷[かこく]さを語っている。
洪水、渇水、ヤマセによる凶作、そして、厳しい農作業に加え土木普請[ふしん]の苦役。

 津軽藩のその類を見ない開発高は、なんとも形容しがたいほどの過酷な労働と、ほとんど類を見ないほど強靭[きょうじん]な農民の忍耐によって支えられてきたのでる。




 ともあれ、弥生型社会の建設、大地の改良というものがいかに困難な仕事であったか、この地の歴史は教えてくれるのではなかろうか。







  軍需物資をどれだけ確保できるかが否かが、戦いにおける勝敗の分かれ目だという。


 「千世かけて治まる御代のしるしには
           雲居しづかに月のさやけさ」


  上の歌は、津軽為信が豊臣秀吉の前で詠んだとされる歌である。

  1571年(元亀二年)、津軽為信は、津軽の領主であった石川高信の居城である石川城へ攻め込んだ。津軽地方を支配していた南部家に反旗を翻した。そして、1590年(天正18年)に、豊臣秀吉の小田原城征伐に参陣して、本領安堵を得るのである。下剋上が決着した。その際に秀吉を招いて、礼の歌を詠んだ。南部一族が津軽地方を支配したのは200年程であったが、それでも千世にも感じられた、戦いの末の想いだったのだろう。
  まるで安心し切ったこのような心境の歌を詠みながら、しかし、決して守りの手を緩めることがなかった為信と津軽一族。
  新田開発をあれだけ激励したのも、石高を上げて豊かな藩になるだけでなく、米が重要な軍需物質だったからではないか。禅林街にあれだけの仕掛けをした彼らのことだ。次の戦いをいつでも念頭に置いていたと考えた方が納得がいくのであった。






















 さて、あたかも戦後の近代農業土木技術は、何百年という津軽の歴史的悲願を、わずか数十年で達成してしまったかのように思える。
 しかし、そうではない。

 頭首[とうしゅ]工や揚水[ようすい]・排水機場といった高度な機能は備わったが、今も、土淵堰[どえんぜき]や廻堰大溜池[まわりぜきおおためいけ]をはじめほとんどの本質的な水利システムは先人が築いてきたものである。
 ケガヅもなくなり、ようやく人が米で食えるようになった時代。歴史的に見ればほとんど同時代に、農業は産業としての危機が叫ばれるようになった。

 もし、この津軽まで農業が揺[ゆ]らげば、この地は2度にわたって「まほろば」を失うことになる。








  現代で手にすることが出来るまほろばは、かつてあった桃源郷とは異なる。弥生式ユートピアのように人が叡智の力と血みどろの努力とで奪い取るものでしかない。
  弘前の旅は、それを私に示唆してくれているのだと考えた。

  しかし、そうではないのかもしれない。
  戦いに備えて、用意をすること。守りを固めること。物質的な意味においても、思想的な意味においても、絶えず戦いを想定して築き上げること。
  だから仏の顔をする。だから自然を慈しむ。だから命がけで稲を作る。

  そうすることで、私たちは現代のまほろばを得ることが出来るのではないか。



  どちらにせよ、生易しいものではなさそうだ。
  弱肉強食の中に、こそ、桃源郷があるなどとは、私は思ったことがなかったのだった。









今回の旅の記録をまとめた映像です。写真とは少し違います^^







☆出典☆

盛本昌広『軍需物資から見た戦国合戦』を読み解く
津軽為信の和歌
津軽で生まれる子らへ
津軽と南部
戦国ちょっといい話・悪い話まとめ : きたない為信さすが汚い


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