えんとつ町のプペルを読んでみた。〜偽物の世界からの脱出劇〜





 話題作の『えんとつ町のプペル』を読んでみた。全く感動しなかったのだが、それ以前に全く作品とは関係のないコメントや投稿ばかりが目立つので、なんとなく何か一言言いたくなった。絵本業界がどうたらとかクリエイターがどうたらとか、元々の物語とは一切関係がない金銭にまつわる変な論争ばかりである。アイドルとして売れた少女そのものよりも、アイドルとしての売られ方や業界、プロデューサーに話題が集中しているようなものである。これでは作品がかわいそうだ。

 なので、物語について、ちょっと書いてみたいと思う。暇な方だけ御付き合いください。

 そもそも私という人間は、世界をこんな風に捉えている。この世界に起こる全ての事象は、自分に何かを教えるために必然的に起こったものだと。だから「えんとつ町のプペル」という物語が、突然、話題作という形で、私の眼の前に現れたということは、この作品を通して、誰かが何かを私に伝えたいということである。だから、あなたにとっては、えんとつ町のプペルは違う意味を与えてくれるかもしれない。ただ私はこう捉えて解釈する、というだけのお話だ。そこのところ勘違いのないようによろしくお願いいたします。

 ちなみに作者の西野さんはこの物語についてこう語っている。

夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会の風刺

なるほど。ひどい現代社会だ。まぁ、物語は全て、風刺かメタファーかアナロジーとして受け取ることができるので。捉え方次第では様々な物語となるのだろうが。

 まず、感動する(何かを私に伝えてくれる)という目的で書かれた本だとする。だが、私は安易に感動できなかった。なぜプペルの物語に感動しなかったのか。絵はとても綺麗である。素晴らしい。本を買って絵を手元に置きたいと思う方がいるのは頷ける。だが、主人公プペルに感情移入しにくい絵なのである。愛らしい顔がない。ゴミだからではない、わざとそうしているのだ。書こうと思えば目の一つや二つは描けるものである。私は主人公のアップを探したが、表情をはっきり捉えることが叶わなかった。最後の一コマくらいか(この話は後で)・・プペルという主人公は(みんなとは違う化け物という形で現れるが)、確かに異質の、それに加え「顔のない」誰かの象徴でなのである。つまり私たちがはっきり見ることのできない(確認できない)存在という・・・
 しかし、この化け物は、ハロウィンの仮装(仮装イコール偽物、の集まり、しかもハロウィンというイベントは、秘密結社が絡んでいるという都市伝説的な不気味な起源論があり、悪世界の象徴でもある)が終わると、仲間ではないとバレるのである。つまりハロウィン(悪世界)の偽物と同質ではない、「本物」なのである。なのに、嫌われて、いじめられて、傷付けられる。存在を抹殺されそうになる。化け物は化け物でも偽物ではない「本物」で、顔のない存在と言えば、思いつくメタファーは一つしかない。いかん、絵の話からちょっと先走りすぎた。とりあえず、共感しづらい主人公だということだ。

 そして、絵と同様、物語の方もわかりづらい。なんとか主人公のゴミ人間に感情移入して読み進めていると、突然ルビッチという「少年」が現れて、今度はこっちの少年が感動の主体になる。私たちの目線はふいにルビッチに移動されるのである。こっちかよ、と思わずびっくりした。こういう目線の移り変わりが随所にあり、ついていくのに少し手間がかかる。自然と読み進められないのである。

 なので、両方の視線を追うとして、まずはゴミ人間目線で物語を読んでみたい。物語の前提はさっきも言ったが、私たちに何かを伝えてくれる手段である。だからその感動の意味を探すのである。

 ・ゴミ人間からの感動の視点(なぜゴミ人間の行動が感動的なのか?)

 ひとつは少年に「ホシ」を見せてあげたこと。
 えんとつの町からの脱出も素晴らしいのだろうが、「ホシ」を見たことにより父親の話が嘘ではない、真実だと少年に喜びを与えた。(少年は父親が悪いことをして死んだのだと周りから言われて、父親に後ろめたい思いがしていたのである)
 もうひとつは、少年の「ペンダント」を探したこと。ゴミ人間はたとえ自らが汚れて、少年に嫌われようとも、少年が取り戻したかった父親の写真の入ったペンダントを探し続けたのである。
 
 ホシは、現実ではなかなかたどり着けない突き抜けた世界(成功ともいう)の象徴であり、父親の顔を忘れないための失ったペンダントは、私たちが失った、もしくは失いかけている記憶の象徴である。記憶じゃなくて、夢だというかもしれないが、私は記憶だと考える。

 だからだ、もしも私たちがゴミ人間であるならば、(そう仮定して物語を読むならば)たとえ嫌われても、汚れても、誰かにたった一人でもいい、誰かに、「ホシ」を見せてあげられたならば、私たちは救われるのだ。だから最後に、少年の笑顔と涙を見て、初めて人間らしい照れた表情を見せるのである。(やっと顔なしの顔が現れる)
 私たちが自分を救うためには、相手に与えること。彼らにホシを見せてあげること。彼らが失いかけている記憶を取り戻してあげること。それができれば、ゴミ人間はゴミではなくなるのである。あなたが嫌われ者のゴミ人間(夢追い人)ならば、私が言っている意味がわかると思う。誰かの心を震わせて、自らも輝いて。
 ゴミがゴミでなくなる瞬間。そこが感動なのだ。

 次に、少年ルビッチ目線で感動物語を読んでみる。その前に、ゴミ人間が「ホシ」を見せてあげる誰かたった一人についてだが・・・少年ルビッチがその一人だったというのは少し反則気味である。ルビッチは初めから無条件で、ゴミ人間を好いていた。彼だけはゴミ人間を異質だと思わず、懐かしい(自分に近い人間だ)と思っていた。これは彼がゴミ人間(の心臓は父親?)の息子だからだったなのだが、それを言うならば、私たちゴミ人間は最低誰でも一人は自分の子供を救える=自分も救われることができるということになる。子供を産んでいない人は、作品を子供としてもいい。西野さんはこの絵本(絵本という自分の子供)に自分の中のホシを見せて(投影させて)産み出すことができたというわけだ。でも、子供を産めない人は困るよね??

 それで、私たちは子供を産めないルビッチとして、ゴミ人間じゃない、与えられる存在として、物語を読んでみる。そうするとどこが感動なんだろう?何を伝えて貰えばいいのだろう。

 ・ルビッチからの感動の視点(なぜルビッチの行動が感動的なのか?)

 まず、やはりここ。いじめに遭い、みんなから嫌われているゴミ人間を無条件で愛し味方になった。「たったひとりになっても信じ抜いた」。ここですね。
 これは書き方が弱いけれど、おそらく、私たちは、ゴミ人間を信じる媒体であり、たった一人になっても、信じていれば必ずホシが観れると(そしてルビッチはホシを見たと)言っているのだろう。その割にルビッチは途中で(誤解とはいえ)汚れてばかりのゴミ人間を見捨てようとするのだが、・・うん、ここはもう少し丁寧に描いて欲しかったなぁ。
 つまり一人になっても信じ抜いたのは、ゴミ人間ではなくて、ルビッチのほう。私たちはゴミ人間を信じられるかどうかに、偽物と本物の「化け物」を見分けれられるかどうかがかかっているという考え方。心の綺麗なルビッチは、本物を見つけて、信じて、ホシを見に行った。そして、失われかけた記憶を取り戻すことができた。自分が救われることによって、ゴミ人間を救うことができた。そこが感動的なのだ。

 ゴミ人間は作家であり、父親であり、嫌われ者、マイノリティー、信念のメタファーであり。いやいや。

 要するに、私はこう考える。ゴミ人間の究極のメタファーは神であると。
 

 神というと語弊があるかもしれない。そのような尊い存在の象徴である、ということ。(私は自然神だと考えた)ゴミ人間は、ホシ(宇宙=天)からの使者(化身)である。この世界は、えんとつ町であり、ハロウィンの仮装(偽物)の化け物が溢れている町である。本物の化け物(自然神)は、迫害され、もう時間の問題で抹殺される(ないものとされてしまう)貴重な存在である。地球は破壊に向かっている。彼こそが私たちにホシを見せてくれるというのに、私たちは決して信用しない。(お金に権力に欲望・・数々の世俗のしがらみがあり、どうしてもえんとつ町から離れられないんですね)ゴミはゴミにしか見えない。価値のないもの。形のないもの。生きていく上で必要のないもの。常に後回しにされて、見失いかけてしまうもの。(原発とかその典型だなぁ・・)


 けれども、ルビッチは星からの使者を信じ抜いて、父親の記憶を取り戻した。そう、私たちも以前は、・・きっと遠い昔は、星のある場所に生きる存在だったという失われた記憶のアナロジー。だからルビッチは、ついに、父という仲間を取り戻した。そうじゃないかなぁ。作者は違うというかもしれませんが、私はそう読んだという話。これは現代の風刺では終わらない。ホシが作者に書かせた、信じて、というメッセージ。

 たとえ、今、私たちがえんとつ町に住んでいようとも、あなたがそれを信じ抜いていれば、必ずたどり着ける。導かれて、失われた記憶を取り戻すことができる。

 まぁ、そんな風に読んだわけです。

 この世の中、善人の仮面を被った化け物ばかり。ゴミ人間やゴミ人間を信じる人をいじめる始末。「夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる」。まさにえんとつ町ですが、ホシは本当にあるんだ、と、私もたった一人でもいいから、いつか見せてあげたいですね。


 1月22日追記。信じて、というより守って、というメッセージかな? だからルビッチとしての決意。たとえ不必要に見えようとも、ゴミ人間を信じて生きていこうと思います。ルビッチと同じように、周りに感化されて見失いそうになりませんように。

 

※えんとつ町のプペルの本
 1月22日追記。買いました。えんとつ町を突き抜けるためのお守りとして、買うのもアリかと思います。私もお守りとして持たないと、私の前に現れた意味がないですよね。伝えてくれてありがとうございます、ということで。アマゾンで購入。